幸福とは
ヒルティの幸福論によると、”人の本性は働くようにできている”と書かれている。
よく、働かされるのはよくない、自ら働いている人のほうが幸せだという人がいる。しかし、実は強制的に働かされている人がいたとしても、その人の本性に労働が反対したものでは無いのだと考えるとすると、たいした差ではないのではという気がしてくる。
働いている人にはまだその本性を充足するものがあって、逆に何もしてはいけないと拘束された人、もしくは体が不自由で何もできなくなった人こそ、人の本性を満たすことができず大変な重石を肩に背負った気持ちになるのではないだろうか。また、自由な時間を持っていても、何もしないでいると心の中にぽっかりと穴があいた気分になるのはそのせいか?
人にとって幸福なのは、我が本性をひたすら継続できることなのだとすれば、自分の思うがままに働くことこそ幸福であると思う。
仕事とは何か
仕事とは強制労働でした。アダムスミスが労働は人間の本質であるといいましたがその時代の考え方は労働は労苦でした。しかし生産活動が主だった仕事がサービスに移り仕事に対する考え方が変わりました。生産は人間が生きていく為に必要な行為であった時代は仕事を強制する必要がありました。しかし現代日本はサービスの仕事が増えホワイトカラーの労働者が増えた為、仕事とはサービス、つまり有無を言わさぬ強制労働が必要とされない時代を迎えたのだと思います。だからこそ、今仕事は人の人生における何かを問われるのです。
国によって異なる意見があるかもしれませんが、日本人としての自分は、仕事は社会との接点であり人生のはりあいを保つものだと思う。公私のバランスということが最近よく言われるが、それは仕事だけ、プライベートだけでは人生の充実(はりあい)が味わえない世の中になっているからなのは間違いない。でははりあい、とは何か。それは人に、社会に認められることなのではないか。社会に関係の手を出す人、出したくない人、色々いるが結局社会との接点は避けがたくその社会で生きていくには名声、お金、地位、等々で社会に認められることが必要になってくる。
散歩
平安神宮から東山を目指して歩いていた。
夕方4時過ぎだったろうか。
秋の日差しと気温が一番気持ちよく感じる時間帯だった。
しかし町並みは寂れていて、ちょっとした昭和40年代といった雰囲気。
あまりお世辞にも良いエリアではなさそうだ。
歩き始めて直ぐに、あたりはラブホテル街であることに気づく。。
神社のすぐにこのようなラブホテルがあるなんて。
しかし、ちゃんとあまり見えないように奥まった通りに固まっているのは配慮なのだろうか。
ラブホテルエリアを抜けると、そのままいけば哲学の道、右におれると南禅寺へと続く。
ボストンレッドソックスにいる岡島の母校、東山高校を途中通る。
南禅寺では先輩のお墓におまいり。
南禅寺の石庭、苔の庭を見てきた。
今年2回目だ。素晴らしい。世界観を小さい庭で表現している。
庭をみて、小さい、ちっぽけな世の中だが、一方でこの世の儚さを知った上で、潔く生きようと思わせられた。
人間とは何か
朝起きて、人にあったら挨拶をする、そんな姿が人間らしいと思う。
人間はもともと中に備わった自然を持っており、また人間は外にある自然の環境に触れている。
挨拶のように無意識に何かしたとき、あの人は自然体だという。しかし普段無意識に動かないのは、その活動が古くから人間が作り上げたルールだったりするからだろう。しかし確実に無意識に動いている自分がいるのは誰もが認識しているはずだ。
また、高度医療技術を使って不妊治療をしていた人が、なかなか成功せず意気消沈して夫婦で気晴らしに自然がたくさんあるリゾートでゆっくりしているうちに妊娠してしまったという例がある。このような例に対して、あるお医者さんの書いた記事には、”人間の体は環境や思考によって遺伝子のスイッチが入り、体の形や能力を変化させていきます。だから妊娠しやすい状態に自分を誘導するのです。そのきっかけは「自然」にあると思っています。”と書かれていた。
これは人間の体には自然治癒力があるという証です。
当然昔から言われているとおり、外部にある自然も森や海草から光合成で二酸化炭素を酸素にして地球を満たしてくれる。
このように人間とはうちに自然を秘めている存在であり、またその自然を必要とする存在だと思う。
スノーケリング
黄金崎以来のスノーケリングをしました。
ライフジャケットを来ていたので潜れないのが残念でした。珊瑚の合間を泳ぐ、熱帯魚を見るとつい手を伸ばしたくなり、遂には潜れないのに潜ろうとあがいてしまうのです。